今回はMAYAアメリカダンス留学(1年間)→ 移住(10年間)の奮闘記。
英語を話せるようになるまでの道のりやMAYA流の型破りな英語取得法について、英語学習という視点から、3回にわたってブログで綴ってみたいと思います。
※年齢やベ語学力のベースの有無、語学のセンスなどによって、個人差があると思います。
そして余りにも型破りなので、これはあくまでも参考程度に考えてくださいね!
こんな私でも英語がしゃべれるようになったので、 皆さんも英語が話したいと少しでも思っているのであれば、必ずしゃべれるようになります。
でも話せるようになる為にはある『何か』がとても重要です。
その『何か』は語学学習にとどまらず、生きていく力に通じるもの。
それは読み進んでいくうちに少しずつヒントが見えてくると思うので、 興味のある方、
ぜひ読んでみてくださいね。
そもそもなぜロサンゼルスだったのか?
理由①
憧れのダンス先生がL.Aにダンスに渡米したこと
理由②
親友がロサンゼルス近辺のカリフォルニア大学(UCI)の学生で住んでいた事
親友には色々助けてもらいました(感謝)
そして一番の目的は本場アメリカでダンスを学びたい!
武者修行のような形で身体を武器に、身一つで挑みました。
そして避けられない言語の壁。。
まずはじめにMAYAが真の英語に出会ったのは23歳。
私がダンス留学で渡米がキッカケでした。
もちろん小学生から中高校生まで英語をやっていたはずなんですが・・
残念ながら全く記憶にございません。
(心当たりがある!って方いるんじゃないかな、、)
というのも小さい時から、いわゆる「ダンスバカ」でダンスの事しか頭にない。
「自分のやることはダンス!」
と幼少期から決めていたので(ある意味頑固)
勉強に全く興味なし。
興味ないものには全くやる気も出ない。
何一つ手につかず、勉強に関しては小・中・高と、とても苦労してきました。(涙)
余談で、MAYAは小学4年生まで公立の小学校に通っていたんですが、その後不登校。
学校行ってもすぐに保健室に行っちゃう困ったちゃんでした(笑)
お母さんがいつも困った顔して保健室に迎えに来てくれたのは覚えている。
不登校の理由は分かりません。
いじめか?
勉強か?
小1~4年までの記憶がないんです
そんな中でも踊り続けていたのでMAYAは常にダンスに助けられてる歴史はここから始まります。
4年の3学期から高校まで吉祥寺にある明星学園(みょうじょう)に転校。
この明星学園、あの有名な教育者、無着成恭(むちゃくせいきょう)氏が携わった学校で
教育理念を自主自立・自由平等・個性尊重として、厳格な校則と制服を定めない自由な学校でした。
娘の状態を見極める母の感はさすが。転校を選択してくれて、明星に導いてくれた母に
感謝。
明星学園info↓(興味のある人用)
とにかくこの学校のお陰でこんなMAYAでも自由にのびのびと学校生活を送り、卒業できました(感謝)
この不登校を経験したお陰で、MAYAは人生初の大きなターニングポイントを迎えるわけです。
教育の違いについてこの話しだけでもかなり長くなるので、このお話しはまた今度。
さて、話は戻りMAYAは日本である程度、プロダンサーで、ダンスを職業として活動していた
ダンスの仕事が忙しすぎて
「自分の踊りとは何ぞや?」
壁にぶち当たり 当時、コリアンアーティストのBoAのコンサートツアーが始動目前だったんですが、それを全部蹴ってまでアメリカダンス留学を23歳にして決意。
アメリカ留学を23歳という、遅い年齢でしたわけなんですが 目的はもちろん英語なんてさらさら頭になくダンス一本道。
これまた驚きなんですが、留学当初の語学力といえば、 自分の名前が英語で言えるぐらいでしかありませんでした。
留学の為に少し英語の勉強をしたか・・?
答えはNO。
MAYAは決めたら即行動。後先考えずにまず行動に移します。
そして痛い目に合う。経験を通じて学んでいく派です(笑)
親もよく、こんな私をアメリカに一人で出してくれたなぁと驚きです・・
まぁそんな状態で行ったので、現実はそう甘くなく辛い思いもしたし、たくさん苦労したなぁ、、
実はMAYA、なんと初の一人暮らしがアメリカ、ロサンゼルス。
今でもあの程度の語学力でどうやってアパート、ガス、電気会社などと契約だったり、車を買う事が出来たのか不思議でなりません。車なんてもちろん中古で30万くらいのポンコツセダン。走行中ボンネットから煙がモクモク!なんて事もよくありました。
中でも苦戦したのが意外にもドライブスルー
ドライブスルー!?と思われるかもしれませんが、英語がわからない者としては、口の動きを読んで理解するって結構重要ポイント。
その点、顔が見えないドライブスルーはスピーカー越しに流れてくる音としか聞き取れなくず、、、
しかも注文内容を英語で説明する事の難しさったらない!
定員さんもだいたいはイライラして態度悪いし、焦りがMAX!
品物を受け取るまでには脇汗びっしょりな状態。
このドライブスルーをなんなく注文・受け取り出来るようになった時と、銀行で自分の口座を開けた時は、自分が誇らしかったなぁ(笑)
昔住んでいたエリアのPalms(パームス)CULVER CITY(カルバーシティ)
当時は1bed room ($1000/14万)くらいでしたが今は($2300/34万)くらいかな、、物価がべらぼうに高い!!
気になる費用について。
初めの予定としては1年間という短い期間でしたがその200万もあっという間に底をつく。
ダンス留学費用は自分が貯めた100万親のカンパで金額は200万円。
当時はまだ1ドル110円くらいでした。
L.Aは車社会。まず必要なのが車と、右車線/左ハンドルと全てが逆の運転。周りは超荒い運転でフリーウェイは正にゲームのよう
毎日が生きる死ぬかの日々。
ハードルかなり高しです。
加えて一年間の学費
アメリカに3ヶ月以上滞在する場合、VISAが必要にので学生ビザ(F-1)を取る為に
語学学校に通っていました。
L.Aの最初の一年間の生活は、語学学校で英語の勉強→ 有名ダンススタジオ(当時はミレニアム、EDGE、デビーレイノルズあたりかな)でセレブダンサーのレッスン
と自由気ままに夢のような生活を送ってました
LANGUAGE SYSTEMS INTERNATIONAL LOS ANGELES
(ランゲージシステムズインターナショナル/ロサンゼルス) ここ↓
英語を使う時間を最大限増やせるのが、一年留学最大のメリット
MAYAが心掛けたことはできるだけ日本語から離れて生活するよう意識していました。
留学は寂しさもあり安心感もあるのでどうしても同じ国の人たちと連みがちだけれど、
MAYAはあえてそれは避け、語学学校で知り合った韓国人やブラジル人、英語がセカンドラングエイジの友達を作り、共に語学を勉強しながら生活するようにしていました。
ビザ目当ての学生が多く在籍だけで学校に来ない人も多いのが現実。
MAYAは真面目に毎日通ってましたよ!
MAYAの場合一般的な留学と違うところは、ダンスコミュニティ。
特殊な環境の中でリアルな英語に触れ、語学学習の効率を高めることができた事は確か。
ダンス漬け、英語漬け、そんな夢のような生活を続けて、あっという間の一年間。
語学力がどれだけ伸びたか・・?
気になりますよね〜〜
辿々しくも人とカジュアルな会話までは出来るようになったけど、
ここで語学力のベースありなしの差が出てくるわけです。(涙)
もちろん語学力のベースが全くなかったMAYAはかなり苦戦しましたが、 ダンスコミュニティや語学学校のおかげで、 1年間でかなり語学力は伸びたと思います。
ヒアリングに関しては、残念ながら一年では 大体何を言っているかな、ぐらいしか分かりません。
でもここで大事なのが、分かっているフリをすること。
見ぶり・手ぶりや前後の文章で何を言っているのかは大体理解できる。 そうやってヒアリング力を伸ばしていきました。
ヒアリングで面白かったのが、少しずつ徐々に分かっていくのではなくて、
ある日突然、いきなり理解出来るようになったこと
人が何を言っているのか分かるんです
コメディー見て笑ってる自分に気づいた時がそうでした
私の場合、それまでに3年かかりました
頭の中で日本語を英語に訳して理解しているのではなく、
英語を英語として理解している感覚で、いわゆる英語脳に変化した瞬間でした
とても不思議な感覚でした
その後、スピーキングスキルもダントツに上がりましたね〜。
はい!
ここまでが前半です。次回は実践編
MAYAは留学1年後、帰国寸前でドッカーンとダンス人生のターニングポイントを迎えます
次回は
・MAYAのダンスキャリア
・留学から移住になったわけ
・英語が話せるようになる近道は?
・英語が話せるようになる為の『何か』は何?
などなどお話ししていきまーす!
大好きなZUMA BEACH in MALIBU(ズーマビーチ/マリブ)
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